乙一と書いて、おついちと読む。
この小説家を読み解くキーワードは、「変」である。
今からちょうど10年前、17歳でライトノベルの新人賞を受賞した乙一のデビュー作『夏と花火と私の死体』は、「私」の死体を処理するために犯人達が右往左往する様子を、殺された「私」自身が語り手となって描写していく中編小説だ。文庫版に収録された小野不由美の解説文を読むと、本作が発表された瞬間、名立たる小説家達によって絶賛の嵐が巻き起こり、その声の中には既に「変」の一語が飛び交っていたことが分かる。「変ですごい」、と。
それから乙一は、せつなさの達人とも暗黒小説家とも呼ばれながら、絶妙に「変」でオリジナルな小説を次々発表していく。
例えば、クラスでいつもひとりぼっちの女の子が、頭の中で空想した携帯電話を介して男の子と会話を始める話(短編「Calling You」)。
例えば、孤独を求めて一人暮らしを始めた男と、その部屋に取り憑いた女の幽霊との束の間の交流を描く話(短編「しあわせは子猫のかたち」)。
そして今回、天願大介監督はじめ才能あふれる映画人達の手により映画化された長編『暗いところで待ち合わせ』は、「警察に追われている男が目の見えない女性の家にだまって勝手に隠れ潜んでしまう」(あとがきより)という、これ以上ないほど「変」な設定のボーイ・ミーツ・ガールだ。
乙一は上述した3作を「三部作」と表現し、「この三部作の主人公には思い入れがある。他の作品にはない。私という作家を定義づけするもっとも簡単な方法がこれだと私は考える」と書いたことがある(『失はれた物語』あとがき)。三部作のラストに位置する『暗いところで待ち合わせ』は、作者の思い入れもファンからの支持も厚い、極めて重要な作品だ。主人公は2人。3年前に失明して暗闇の世界に引きこもる本間ミチルと、勤務先の印刷会社で陰湿ないじめに遭い心の暗闇を深める大石アキヒロ。彼らはともに、他人をおそれ、集団の中にいられない自分に戸惑いながら、孤独で1人きりの生活を送っている。しかしある事件をきっかけに、男は見ず知らずの女の家に逃げ込み、似た者同士の2人は、出会う。
2人の奇妙な共同生活というワンシチュエーション、ワンアイデアを250ページの長編小説に仕立て上げた乙一はやっぱり物凄い。非日常的設定に対する思考実験が綿密にほどこされているからこそ、予想外の出来事が起こり続けるにもかかわらず、読者はひとつひとつの展開にリアリティを感じることができる。しかも描かれていくのは、生死が絡んだ一触即発のサスペンスではなく、2人の心の交流だ。本作にはミステリー的な謎も詰まっているが、それ以上に、感情がぎっしり詰まっている。寂しさも、悪意も、苛立ちも、切なさも、それから、愛情も。
目の見えない彼女が、暗闇にうずくまる無言の彼との不思議なコミュニケーションの過程で、“2人”でいることが当たり前になるのは怖い、と思う場面がある。なぜなら“2人”になった後でまた1人になることが怖いから、と。
「これまで一人でやってきたものが崩れてしまいそうだった。そのうちに、平気でいたことのひとつひとつが悲しいことのように思われてくるかもしれない。それは恐ろしいことだ」(137ページ)
でも、それでも“2人”でいることを、つまり他者を思いやる感情を捨てずに諦めないことを、彼女(彼)は求め、彼(彼女)が応える。孤独を愛していたはずの2人は確かに、「変」わる。この「変」が必ず書き込まれているからこそ、乙一の小説は読む人の心を軽々と回復させる。そしてこの「変」がもっとも深く、優しく描かれた作品が、『暗いところで待ち合わせ』なのだ。
吉田大助(ライター)